昭和43年12月10日 月例祭 若先生



 今日はおかげ頂きまして、親先生はじめ、えー、37名の方が、えー、報徳祭の本部の報徳祭ご参拝のために、えー、私、えー、祭主をさせて頂きまして、10日のお祭りを奉仕させて頂いたわけなんでございますけど、うー、ちょうど一年前の今日も全く同じく、うー、このように私が祭主のおかげを頂きまして。えー、朝のご祈念から引き続いて、えー、御用のおかげ頂いて、えー、その時のことを、いろいろ思わせていただくんですけれども、例えば一年前の朝のご祈念、ん-、させて頂いたときは、えー、若い者ばっかりでございましたし、うーん、もう、大祓い会をしようということになりましてね、大祓い三巻が、あーその朝のご祈念であり、朝の教話代わりだったんですよ。もう、本当に大げさなようだけれども、天地にとどろかんばかりの大祓い奏上三巻でした。もう、終わったときはみんな汗びっしょりだったんです。こんなに暖かくなかったし、寒かったんだけれども、汗びっしょりだった。もう、声もかれて、ていうような朝のご祈念であり、また、引き続いての今晩の月次祭も、まあそういう勢いのもとに、仕えさせていただいて、その勢いが、あー、どうでも、大人の方たちに、その負けてはならんというわけではないんですけれども、どうでもこの熱量をもって、ご本部参拝をさせて頂こうと、年頭の本部参拝をさせて頂こうというのが願いが始まりまして、うーん、56名のものが年頭の本部参拝のおかげを頂いたわけなんです。
思いますのに、本当にそういうたとえば、うーん、いうならば、あー、諸先輩方が見られれば、親先生が見られれば、本当に若気の至りの、かっか燃えただけに過ぎなかったんだけれども、その燃えているっていうんですかね、そういう生き生きしたというものが素晴らしい火付け役になっておるということですよね。例えば私たちが一生懸命、若い者ばっかりで本部参拝させていただいて、そのことが例えば、あー、すだ先生との出会いがあって、それが金光教で第一人者と言われるすだ先生を合楽教会に、初めてでしょ?あぁいう方をお迎えすることができたし、あのことを通して例えばこんな寒修行を、6日から寒修行だったんだけれども、おー、大変なおかげを頂いたと思うんです。
確かに、一年の計は元旦にありという、言われますけども、うーん、そういう若い人たちの力が例えば今年の火ぶたを切った感じがしたけれ、したんですけれども、現に今年、昭和43年の年はいー、こう、ずっと振り返ってみますと、これは若い、若い者をうー、するわけじゃないんですけども、そうでしょう?こう振り返ってみて本当にあのー何かきっかけがあるたんびに、若いの人たち、あーなんか行事がありよるというときはもう、学生会か青年会、少年少女会のなんかの行事です。そういう場合に例えば、うーん、もちろんそこには、あー、親先生のお祈りはもちろん、皆様方の諸先輩方のあたたかいご協力や、また、うーん、それを援助してくださる力があってのことだ、ですけれども、そういう、うーん、ささやかなたとえば、生き生きしたものがそういう働きになってきておるということを思わせていただいて、うーん、本当に、あの一年前の、おー、今日の、おー、おー、お月次祭をお仕えさせていただいた、あー、私自身の心なりまたそれを仕えた方々の、うーん、そういうものを思います時に、うーん、まあ、そういう意味合いで、そのー何らかの形で、えー、今がその何もないというわけではないんですけ、しょうけれども、うーん、あの頃のそういう例えば、生き生きしたものが今一度欲しいなあという感じがいたします。えー、親先生、ご本部参拝、されておられる間に、いー、そのようなことを思わせていただき、いー、また、あー、親先生、これは夕べもご理解お話させていただいたわけなんですけれども、うーん、例えば親先生を、たとえ、合楽という教会を一本の木に例えれば、親先生ていう大きな根が大地にしっかり根を下ろしそれが吸収、あ、養分を吸収しておられるんですけれども、例えばその親先生が、あー、その根が枯れたとするでしょう、枯れたら、私たちの幹であり、その葉っぱあるところの私たちまで一緒に枯れなきゃいけないんです。そこのところを親先生が例えば、そのような、馬鹿らしい信心をするんじゃないと仰る。そこ、なら、どうすればいいかというと私たちが実をつければいいんですよ。種をつけなければならない。例えば親のその根が枯れても、また、その、ら、うーん、根が、うーん、実が大地に落ちて芽を吹く、そういう働きになってくる実をつけなけりゃいけないと。そこのところを最近、お徳を頂かなきゃ、信心はお徳をいただかなきゃと仰るんです。だから、もう、ただ、その根は、根じゃない、種は、いろんな形がありますよね。それ、各自それぞれのものがあると思うんですけれども。各自それぞれの、おー、信心の、おー、徳ていうか、各自それぞれの信心ていうものを本気でいただいとかなきゃと、あの、親先生をいつも留守になさら、(咳)、留守番役を私こうやってさせていただきますと、そのようなことを思うんです。
そして、もう一つの収穫は、うーん、私どちらかというと、うーん、頭は良くないんですけれども、すぐ頭で考えようとする悪い癖があったってすね。そのことをわからせていただいたような気がする。例えば、無駄の素晴らしさですね。そんな無駄なことをしてっていう無駄の素晴らしさをわからせていただいたんです。例えば、朝眠い、それを起こさせていただく、こんな馬鹿らしい話はないんです。朝参りさせていただく、時間も例えばお参りさせて頂きお初穂もいる、お金もいるでしょう?時間もいる眠たいのに、そんな馬鹿らしいことをしてっていうことを、いわゆる、そういう無駄なことをしてっていうことの、その無駄の、うーん、そういう無駄を私は徹底してなくそうと今までしてきたような感じがして、するんですけれども、その無駄をしておるところに、えー、いわゆる親先生の頂かれるであろうと思われるような、あの、有り難い心というんですか、あー、ものを頂けたような気がするんです。
僕はあの、そのことをこう思わせていただいたときに、こういう記事をですね読ませていただいたんですけど、あのー、ある科学哲学者がですね、最近の世界情勢が一変しつつあるというんです。例えば、あのー、おー、今まで社会の思想、主義っていうのが西欧近代主義って言いまして、その、合理主義ですね。合理主義をき、(きそう?)として物事をみんな図っていったんです。例えば、ぶんが、文化にしろ、医学にしろ、宗教にしろ、道徳にしろ、もうすべてをその、それは合理的であるか、いないかということで、その、その善悪をつけてきたし、その良し悪しを図ってきた、そのことをそういう世界が今崩れようとしておると言うんですよね。これを読ませていただいたとき、ほんとビクっとしたんですよ。そういう、ですからあのー、その、ある科学哲学者が言わんとするもう一つの世界が生まれようとしておるというのはその科学、科学哲学者にはわからないんです。で、(てお?)わからないし、また、どういう世界が生まれてこようとしておるのかということも、うーん、わからんまんまに例えば、あー、あー、アメリカに、その、ピンキードックですかね、髪を長くして、(インテリー階級?)の方がですね、大学を中退したり、大学の先生を辞めたりして、もう、ぼろの洋服を着たり、いー、もう、な、な、いうならば奇想天外の生活をするんです。そういう不合理な生活をすることによって、そういう世界を作ろうとしておられるっていうことを、おー、記事が載ってたん、のを読ませていただいてですね。本当にあの、そこへんのところの、親先生がいつも言われる、うーん、超合理的信心ですね、超、道理に合った、道理あったって言われる超道理的な信心の素晴らしさっていうものを、おー、親先生のおられない例えば24時間の間に、まあたったあの24時間の間にわからせていただいたことですから、まあ本当なことじゃない、なかろうけれども、そういうことをまあ、わからせていただいたことは、昨年の今晩以上に私は大収穫ではなかろうかと思うんです。
また、年頭の本部参拝が来年、1月1日から3日間にわたって行われるんですけども、どうでもそういう、大きく展開していく元を、おー、いつか例えば、このように親先生の居られなかったことによって見つけ出した如く、そのことを通してまた何かわからせていただきたいという、その求道心が、をいつも燃やして、えー、いきたいなと思わせていただく次第でございます。また、あー、今日はご本部参拝帰り早々お疲れのところ長、長話したんじゃなんでしょうから、この辺でやめさせていただきますけれども、その、皆様方の、おー、そういう意味合いで若い私たち、大変恵まれておると思います。どうぞ今後ともよろしくご協力いただきまして、若い、そういう芽が芽生えようとしておる合楽に、(?)ご父兄の方のご協力は必要だと思うんです。どうぞよろしくお願いいたします。